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その他の科学主義での理論の矛盾点

1.科学的唯物論


この世には物質しかなく、その物質は科学的法則で成り立っているとする考え方を、科学的唯物論といいます。


単純にこの理論で考えると人間を含め全ての生物は物質のあつまりでしかないという考え方になりますね。

全てを物質でしかないと思っている人は、現代人にはかなり多いと思います。自分は死んだら終わりとか考えているわけですが、突き詰めて考えるとこの時点でとてもおかしいのです。


物質しかないということはどういうことでしょう。その物質から心は生み出せますか?かなりの人は物質がこころを生み出しているとも考えるでしょう。それでは意志についてはどうでしょうか。


はっきりいうと物質からは意志は生まれようがありません


つまりこの唯物的科学の考え方に従う限り、こころも意志も物質的なものの2次的現象でしかないという考え方になるのです。つまり自由意志はありえないという考え方になります。


ここまでくれば、多くの人はこの考え方はおかしいということがわかると思います。


またさらにこの考え方を進めると、世界は物質的な現象のみなので、例えば今から100年後にある人がある時に着る服が決まっている、その時に人と会って言うせりふが全て決まっているということになります。

これも非常におかしいですね。


普通はここまで思索する前に、この理論はどこかおかしいよっていうのがわかるはずなんですよね。

科学者は自分の心と精神、意志だけはこの理論の枠組みから外れていると思っているのでしょうか。それは不思議な考え方だと思います。


2.数学

もし、科学で物事を説明したとして、その最後に残った数式、それを科学では説明することは出来ないということです。

数学とは一体何なのかということがわからないのです。なぜ人はそれを正しいと知っているのかさえ。


3.この世にある概念などで説明の付かないこと色々

たとえば、性というものはそうですね。女と男というものがなぜあるのかについては説明は不可能です。生殖のためということを言うかもしれませんが、ここで私がいいたいのは男と女という、科学には元々ない概念がどこから来たのかということです。

また、よく似たもので左右という概念もそうです。人間や動物の体は、何故か左右で一対という構造になっています。

あと、音楽、芸術というものも科学ではごまかして説明することしか出来ませんね。


ここまで私が批判してきたのは科学万能主義です。もちろん私たちの生活が豊かになった、便利になった大きな理由は科学的テクノロジーの発達のおかげです。

でもだからといって、科学万能ということになって人間性を科学数理的にのみ説明したり、例えば神といった存在を否定したりは本末転倒ですね。そのような考え方はカテゴリーエラーだということができます。


今の日本では科学というとなんとなく万能だと思っている人は多いでしょう。

でも、私にはこの考え方が単純に真とされたことが、今の日本でのいろいろな問題の原因になっている気がします。

体や心、魂といったものが、冷たい科学主義・物質主義でしか捉えられなかった、その悪い影響が今になって出てきていると感じます。



なんか小難しい話になってしまいましたwいろいろ書き出すと長いですね。

このブログを見て良かったと思ってくれた人がいれば、いいのですが。。(いるのかな。。。)

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現象学と科学

その頃、いくつかの哲学書も読みました。というか読もうとしました。


でもちんぷんかんぷんです。カントの純粋理性批判なんて、さっぱりわけがわからなかったです。

あの頃読んでた本の訳ってたぶん酷かったものなんじゃないかと思います。難しく訳しすぎなものを読んでたんじゃないかと今では思っています。その訳だとプラトンですら、難しすぎましたからね。プラトンは難しいものじゃないはずなんですよね。。。


それもあって、その頃の西洋哲学はさっぱりわからないのですが、フッサールの現象学は非常にためになります!まぁ、読んでたのは現象学入門ですが・・・。


(以下注意!現象学で使う用語は全く覚えてないので使っていません!でも言いたいことが伝わればいいんですw)

現象学では客観的なものの見方は出来ないとはっきり言ってるのですよね。何か物があっても、それは本当にそのものを見ているのか判断できない、と。

この視点は全く新しいものでした。普段私たちは同じ世界を見ていて、同じものを見ていると感覚的に信じ込んでいます。でも、それが正しいなんてことは証明不可能なんですね。

自分の意識が客観的に物質を見ていると思い込んでいるだけで、その客観的な物質だと思っているのは自分の意識がもつ物質のイメージでしかないんですね。で、その視点を回りのみんなは共有している、と(ここまでは現象学は言っていないか・・・)


つまりこのことがわかれば、科学というものを例えば以下のように定義できるわけです。


私たちが共有して持つ物質という客観的に見える(実際は客観ということはありえない)イメージに対して、その物質というイメージ以外のものを考慮しないという仮定において、その物質というイメージの力学的法則を数学的に記述する方法


こんな感じかな。もっと正確に言えそうですが、そういう語彙力はちょっとないです。


この頃、脳科学者が現象学の理論をアイディアにクオリアなどという考え方をしていますが、現象学を少しでも理解したなら、脳などというものを考えること自体が無意味だという結論になるのですが、理系の人って最初に物ありきで考える癖があるんでしょうね。でも、そういう私も理系だったりしますがw

フロイトからユング

科学にもキリスト教にも違和感を感じていたので、それ以外の本で面白そうなものを読み始めました。


高校生の時、手に取ったのは宮城音弥さんの「精神分析学入門」だったかと思います。なんとなく夢とかに興味があっていい本がないかと探して精神分析学に興味を持ったのがきっかけです。

フロイトの「夢分析」もその流れで読みました。日頃見ていた夢に何か意味があるのだと考えると非常に面白く、回りの同学年の人たちはそういう難しい系の本に興味を示さない中、自分はずっと図書館通いでした。

でも、フロイトは一般に言われているように、全て抑圧された性本能で還元しちゃうんですね。もちろん性本能に基づく部分はあるとは感じましたが、ちょっと極端な感じがしました。そこでユングの登場です。


ユングもとりあえずは入門編を読もうということで、最初は秋山さとこさんの本を読んだと思います。夢の分析も的を得ている感じがしました。シャドーなんて概念は、フロイトは全て性に還元するところがあって一面的ですが、ユングだとその人が意識したくないものというふうにもっと広く捉えているんですね。実際、その方が現実的だと感じました。

でも、よくよく調べていくとわけわかめな概念が次から次へと。。原型って何!?集合的無意識?シンクロニシティ?そういうのを洞察力に優れている学者さんたちが書いているんですよね。ここで科学的な思考のみで考える人はやめちゃうんでしょうけど、科学に違和感持っていた自分だと、「どうも心には普段自分たちが考えていたり当然と思っているより、はるかに深いのでは」と思いました。もうそれからですね。ユング関連のものはかなり読みました。

ユング心理学で有名なのは去年亡くなった河合隼雄さんです。彼の著作はかなり読みました。河合さんは対談がお好きのようで、対談集は非常に楽しく読みました。その対談などで世の中の色々な現象や問題、そういうものの奥に見えない、人々の思考や感情の流れを浮かび上がらせていく、それは非常に興味深いものでした。

物事を非常に表層的にしか捉えようとしないマスコミやコメンテーターが多い中で、全く違う観点からの見方がある、それを知ったことはためになったと思います。


その頃シュタイナーという人物についても知りました。教育、医学、農業などに大きく貢献している、影響を与えている哲学者、神秘学者という、非常に謎な人物でした。彼の功績はすばらしいものなのに、その考えの元になっている理論が完全に?なものなのです。さっぱりわからないので、その時はそのまま追求はしませんでした。


そのユング心理学の先にあると思われる、マズローの心理学やトランスパーソナル心理学も調べましたね?。確かにユングがただ単に集合的無意識と定義したものもさらに分けられるんだろうとも思いました。でもユング心理学をずっと読んでいたのは、ユングという人間の人生の不思議さ(自伝はおすすめ!)、そして河合隼雄さんの様々な事柄に対する理解、それが面白かったので、それ以上は行かなかったんだと思います。

科学万能主義ってひとつの宗教じゃん!

と、学生時代から思ってました。はぃw


最初にそう思ったのは中学生の時だったと思います。

その頃から色んな本を読むのが好きで、科学関連の本も読んでました。


そこで進化論の解説書を読んだわけですが、読み進んでいくうちに、「これ、おかしいじゃん」と思ったわけです。


無生物から生物が発生したなんて書いてるわけですよね。私からすれば、「そんなばかなことは起こるはずはない!」です。

しかも、生物は偶然に進化したとか続くわけです。これはどう考えたっておかしい。でもよくよく調べていくと多くの科学者は普通に進化論とか信じてるわけです。


あと、ビックバンもそうですね。考え方としては面白いけれども、話にすごく飛躍がある。ここでも多くの科学者はビックバンなどといった自然発生的に物質が誕生した説を信じています。


正直、こういう話をそのまま鵜呑みにするよりは、神様がいて、宇宙や銀河系、太陽系などをつくって、地球の上に動物や植物、そして人間を作った。そういう考え方の方がはるかに論理的にすっきりします。


科学は宗教(特にキリスト教)に対抗しようとして、無理やりそういう理論を持ち出したんですよね。

でもその根本は、進化論を信じる、ビックバンのような自然発生的な宇宙の発生を信じるという形です。キリスト教の場合は神を信じるというのが根本なのでちょっと違いますが、信じるということでは全く同じです。


その頃、テレビなどで超能力や幽霊の番組が流行ってました。そういう番組に科学者が出て、超能力や幽霊は科学的ではないとか呪文のように唱えていましたが(実際、呪文のようなものだと思います。科学というと多くの人は万能と単純に思ってるわけなんですよね。)、ああいうのは、ある特定のイデオロギーを信じている人がそれを信じていない人を頭から批判する、そういうものです。実際の真実を現実から汲み取ろうという態度は全くないんですね。

自分が信じている主義や主張だけが正しいと思っていることからして、科学者のいうことは眉に唾を付けて聞く必要があるな?っと思っていました。

神秘学徒として

簡素な食事を目指して行こうと決めました!!


とにかく食べるのは好きで好きで、何かおなかに入ってないと落ち着きませんw でもおなかがいっぱいだと集中力は低くなるし。。この際にダイエットも兼ねて!


あとは肉食ですね?。は控えたほうがいいとシュタイナーは言ってるので、出来るだけ控えるようにします!

神智学 読書会

この前、神智学の読書会に行って来ました。


霊界の様相について説明している部分を読みました。イメージ的には何となくわかる感じだけれど、色々と質問が飛び交って読書はなかなか進まないですね?。こういうのはやっぱり経験しないと解らないかなと思います。
ただこれっていわゆる曼荼羅と同じものかなという感触はしますね。


その時、霊、魂と体について話したのですが、どうも私の理解に間違いがあることに気付きましたw

そのうち書き直さないといけないですね。。。w

シュタイナーの考え方に関しては、人智学の人たちは教育や芸術に重きをおいているのかな。

私は精神修養が最も大事だと思っていたり。シュタイナーの著作を読むと、主著4つのうち3つで精神修養に触れていますしね。その方向に進むことで地球全体、人類全体の覚醒が早まっていくかなと思いますし。


意識と本質

哲学者の井筒俊彦氏が書かれた「意識と本質」を読んでいます。まだ読み終わってませんが^^;


みみずが這うようなスピードで読んでるので遅いですが、面白いですね。

日本、中国、イスラムや西洋の哲学・宗教などでの、意識と本質との関連についての考察がこれでもか?というほど出てきます。

でも単なる考察だけじゃなくて、多分幾らかは実際に経験しているんでしょう。生々しいというかみずみずしいというか、現実とは実際はこういうものだという気にさせます。(実際に意識とはこういうものだという確信を井筒氏はもっていたと感じます)

物質の絶対的な客観的認識はないこと

神秘主義やスピリチュアリズムなどを批判する人でよく「そういうものは科学的ではない」なんていいます。

でも、科学というものは実は真理ではなく、そういう批判は的外れです。


幾らか哲学で認識論を勉強した人は分かると思いますが、物質とわれわれが思っているものの客観的認識は不可能なんです。別にここではその物質の認識を主観で捻じ曲げられたとかいう話ではありません。

一言でいえば、「認識する人は認識していると思っているものを、本当にそこにあるかわからない。またそのようなものとしてあるかも分からない。」


例えばあなたとわたしがあるところにいて、皿をみているとしましょう。

でも実際に皿というものはあるのでしょうか?しかも見ているままで。


もしかしたら二人ともその皿があるという認識を抱いているだけかもしれません。二人して夢を見ていることもあるかもしれません。


「そんなばかなことはない」という人がいるかもしれませんが、正直そういうことはわかんないんです。同じ世界にお互いが同じように存在しているというに思っているから齟齬が生じないだけです。


今われわれが住んでいると思っている地球も実はどうなんでしょう。われわれがみんな同じ夢を見ているだけかも知れません。

是非読んで欲しい一文(といってもそれなりの長さがあります・・・) つづき

だいたいわかってきたと思うのですが、なぜ、今、霊性が学問の世界で軽視されているのかと言えば、それは西ヨーロッパ文明の基本的な性質として、そういう直接体験の世界を軽視、抑圧する面を持っており、それが近代にも受け継がれているからです。そのように私は断言できますね。それはヨーロッパに特殊な事情なのです。これに、科学のなしうることを過大評価することによって、素朴唯物論が広まってしまったという事情が重なります。しかし、もしヨーロッパ人が内的な体験を重視する人々であれば、それほどまでに唯物論が席巻してしまうこともなかったのではないか、と思うんですが。ところが、科学技術の力でヨーロッパが帝国主義的な拡張に乗り出し、次々と植民地化を始めますと、非ヨーロッパ諸国は必死でそれに対抗しなければならなくなります。そのためにはヨーロッパの文明を受け入れるほかない、ということで一生懸命それを取り入れて近代化しようとします。ところがここで、ヨーロッパのものはすべて「普遍的」であって、すべて学ばねばならない、となってしまいがちであるわけです。そうしますと、ヨーロッパの持っていた思想という分野もまた、ヨーロッパこそが普遍であってそれに合わせねばならない、と考えてしまいます。こうした近代的な大学が日本に作られたとき、そこに西洋の哲学をそのまま移植してしまいます。その惰性がいままで続いてきているわけです。そこで、ヨーロッパ的な思想のあり方はかなり特殊ではないか、と見抜ける人がいなかったのですね。

日本以外の国ではちょっと違うんですよ。たとえばインドでは、ヴィヴェーカーナンダとか、オーロビンドとか、むしろインドの伝統的な哲学を基礎として、逆に西洋にその価値を訴えよう、という思想家たちが出たんです。日本では、鈴木大拙が禅を広めたということがありますね。それと西田幾多郎が禅体験をベースにした思想をつくった。でも全般的に、インドや中国にくらべて、日本はあまりに伝統文化を軽視しすぎてきた。ヨーロッパ追随が強すぎた、という傾向はあります。たとえば、音楽とか医学とか、全部西洋一辺倒だったでしょう。インドや中国では決してそうじゃないんですね。もっと自国の文化に誇りをもってやっている。

西田幾多郎についていえば、文体的には西洋哲学のようにやらねばならない、という意識が強すぎたと思うんです。そのため、何を言っているのか普通の人にはわからない。あれを、もっと日常の日本語を洗練させたわかりやすい文体で語れていたら、もっとすごかったし、影響力も一部の哲学界にとどまらないものだったのではないか、と思います。西洋哲学の文体こそが普遍的だという価値観が強すぎた。そのため西洋の哲学者とは話が通じやすくなるけれども、普通の日本人とはコミュニケーションできなくなった。むしろ逆の方がよかったと思うんですが、どうでしょうね。

つまり、私が霊性学というのは、本来の思想のあり方に戻ろうということにすぎないんです。近代ヨーロッパ思想とか、近代的学問とか、そういう狭い枠をもう一度見直して、人類が真理に向かっていく道筋を思想としてたどっていくという営みに、もう一度立ち返るということなんです。私はそれを言っている。だから、本当は普通に「思想」とだけ言えばいいはずなんです。

さてそこで、ユングはそういう西洋思想の限界をはみ出している、と言いましたね。だからユングが日本人に人気があるのも当然のことだと思います。優れたユング心理学者も出てます。河合隼雄さんなど読むとひじょうに東洋的な発想を重要視してますね。西洋流に、論理的に構築していくことにはさほど興味を持たず、具体的な経験の地平に接して、それと同調していくことに関心を持つ。それが心理学の本来のあり方だという。これは、ユングだけじゃなくて、心的経験の世界を追求していった人はけっこう東洋的なものに理解を示すようになりますね。カウンセリングの基礎を築いたロジャースなんかもそうです。

大事なのは「人間は何を体験しうるのか」ということを明確に知ることなんです。そういう視野をできるだけ広げること。それなしに、抽象的論理だけで人間とは何か、存在とは何か、とやっていても深い思想が出てくるわけじゃありません。人間は未知なるものとの出会いによってこそ成長するものなんです。そういう意味では、ユングは、それまで無視されていた実に広大な心的経験の世界を再発見したと言えるのではないかと思いますね。そしてもちろん、ユングのポイントとしては、集合的無意識という考えです。いわば、集合的な記憶ですよね。でもそうすると、心は個体を超えているということになるのか。その集合的無意識というものがあるとするなら、それはどのような物質的媒体に蓄えられているのか。と考えるとよくわからないのです。つまり実はここでユングは、「心は必ずしも物質的媒体に依存したあり方をしているとは限らない」と考えているんです。心は脳があってこそ存在するのだ、という唯物論的思想を持っていると、ユングの言うことは理解できなくなるんですね。

ユングが発見したのはいわゆる元型的イメージの世界と言われてますね。たとえば天使だとか菩薩だとか、神話的なヒーローみたいなもの、それはいずれも心的世界、集合的無意識に存在する元型的イメージとして理解されます。そういうイメージの世界に入りこむと、ひじょうに深々とした世界体験がある。「聖」の世界と言ってもいいでしょう。もちろん「魔」のような世界もまた、ある意味では実在する。要するに、これほどまでに広大な体験の領域があるよ、というのがユングの一番いいたいところだったと思います。それを整理する「理論」をありがたがる人々もいますが、むしろ彼が言いたいのは、これほどまでに心の世界は大きいんだよ、現代人はそのうちどれほどを知っているのか、もっと謙虚になれということだったんです。それをくり返し言っているんですね。

それで、ユングは「神を知っています」と答えたということですが、これは、仏教で言うような「悟りを得た」とか、神人合一の神秘体験を得たという意味ではなかったと思います。「私は、神があることを自明と思えるほどの体験は得ている」という意味だと考えられます。私が思うに、ユングは悟りまでは行っていません。よく、ユングと仏教を対比させて、ユング心理学では仏教を心理学的に解明するんだ、なんていうことを言っている本がけっこうありますが、そこまでユングを評価することはできない。日本人はユング好きですが、ちょっと過大評価されている側面というか、自分の願望をユングに投影しているところもなきにしもあらずです。私だって、ユングが言っているような意味においては、「神を知っています」と言えます。でもそれは、悟りではありません。そのへんの区別がつけられないというのは、ちょっと、思想家としては通用しませんね。あるレベル以上の体験はみな同じに思えてしまうのは困るのです。その結果、悟りというものが著しく矮小化されてしまうからです。ほんとの悟りとはいかにすごいものであるかを知らないということです。その手の本がひじょうに多いので、注意が必要です。「ああ、キミの想像力の限界はそこまでなのか!」と嘆息したくなるものが多いんです。

ということで、霊性を理解しようとしたという点においては、ユングよりもむしろ、アサジョーリという人の方が偉いと私は思っています。アサジョーリというのはイタリアの人で、サイコシンセシスという心理療法を作った人です。サイコシンセシスの本は日本語でもいろいろ出ているのでのぞいてみてほしいですね。フェルッチの『内なる可能性』とかお勧めです。アサジョーリは、ユングが集合的無意識と呼んだ広大な領域を、三つに区分したんです。下位無意識、中位無意識、そして超意識(上位無意識)と。つまり、無意識の中には、すごく低劣ないし未分化なものも、またすごく高い次元のものもあるぞ、というんですね。その超意識は、トランスパーソナル・セルフというものにつながっています。それが、私たちの本当の自己なんだよ、ということを言っています。それだけでなくて、そのトランスパーソナル・セルフとつながり、自覚していくためにはどうしたらいいか、ということもやってます。具体的には、いろいろイメージ瞑想法のような技法を使うんですね。それで、自分の内なる光というか、そういう心の領域を体験していく。つまりこれは過去には修行法としてやられていたものを、心理学的なワークとしてやっていく、ということです。よく最近ではハイヤーセルフとかいう言い方をして、それとつながる瞑想法みたいなものはよくありますが、そういうもののルーツはアサジョーリなんですよ。ユングから直接そういうものが出てきているわけではないんです。日本ではユングの人気はすごいけどアサジョーリのサイコシンセシスはあまり知られていない。でも、みんなユングに求めようとしているものは、実はアサジョーリの方にあるというケースが多いんじゃないかな、と思ってます。そういう意味でもっと知られていってもいいですね。

アサジョーリはイタリア人なんですが、なんというかやっぱりゲルマン文化とは違う感性があるような気がします。なんというかポリーニというピアニストがいますが、ああいうタイプの精神性のような・・と言っても何のことか分からない人がほとんどでしょうが、要は、プラトン的感性を感じるんですよね。透明な、光に満ちた美の世界へ、徐々に上昇していくような、そういう気持ちよさがあるんです。そういう意味で、実は、私がいちばん感性的にぴったりくる心理学者なんです。これに対してユングというのは、やっぱりゲルマンだなあと感じるところがあって、なんていうか、暗い森のような世界なんですね。ちょっと、おどろおどろしいようなものもあったりして。そういう感じがします。独断的に言ってしまいますと、私は、アサジョーリの方が霊性を良く理解していたと思っています。ユングは、元型的イメージの強烈さに圧倒されてしまうようなところがあったけれど、アサジョーリは、そういうイメージの渦巻く世界から一歩抜け出た清澄な世界を知っていた。ユングはそういう世界の存在はわかっていたけれど、そこへ人を導くような方法論を残してくれたわけではない。むしろ自分の中の闇と対決するというようなことが得意分野だったんではないかなと思います。それもまたひじょうに必要なことで、その意味でユングもなくてはいけないものなんですが、ユングだけでも駄目だということですね。

ともあれ、トランスパーソナル・セルフ、高次の自己というのがあるんだ、それは体験できるんだ、ということをはっきり認知したというのが、アサジョーリの功績なんです。ここで重要なのは、心理学とはそのように「大事な経験」をシェアすることによって成立するということなんです。これは実は、心理学の専売特許ではないし、そうであってはならない。というのは、まさに、「大事な経験」、つまり魂の経験ですが、それを共有し、共通財産にしていくということこそが、精神文化の基礎なんですよ。たとえば音楽の古典作品、ベートーヴェンの「田園」みたいなものをみなで聴くということもそうなわけで、ある「高められた経験」を皆で共有できる。それによって文化というものが成り立っていくんです。つまりコミュニケーションです。たとえば私はベートーヴェンの中でも「ピアノソナタ第三十番」というのが特別なものに感じるんですが、それをポリーニの演奏で聴いたりすると、きわめて霊的な感覚が伝わります。ベートーヴェンという人は「何かを知った」というか、何かとてつもない世界が開かれた時の「畏怖と畏敬」の感覚が伝わります。彼が本当にそういう体験をしたかどうかはもちろんわかりませんが、少なくとも時空を超えて何かが伝達されている。それは彼が「表現」をしたことによって成立するんです。

ですから霊性学というものも、「魂の体験」とも言われるような大事な経験を共有することを前提とするんです。トランスパーソナル・セルフの体験もそういうものである。それから、マスローが研究した「至高体験」もありますね。それから、最近研究が進んできた「臨死体験」もある。みなその当人にとっては大事な体験なんです。私たちは、そういう貴重な体験をシェアすることが、「愛の行為」であることをよく自覚しなければいけません。現代では、その体験の価値は一般的にあまり評価されていません。常識的な、唯物論的世界観をはみ出すような経験には「頭おかしいんじゃないの」というレッテルを貼られる危険がつきまといます。事実、臨死体験についても、ムーディーの本が出て有名になるまでは、多くの人がそういう体験を持ちながら、誤解を恐れて口をつぐんでいたのです。しかし、危険を冒してそれをシェアすることには、そのような貴重な世界があることをみなに伝えたい、という欲求があるわけです。そういう体験を人間が持ちうるということが、ひじょうに重要なことなんだという直観があるんですね。

そういう体験のシェアという発想は、西ヨーロッパの主流にはなかったものでした。そういう直接体験に基づいて「知」を考えていこうという発想は、「オカルティズム」とされて、地下にもぐることを余儀なくされたのです。それがヨーロッパ文化の大きな特徴であって、シュタイナーのような神秘思想がオカルティズムという形式を取らざるを得なかったのもそういう文化的背景があるんですね。もしシュタイナーが東洋に生まれていたら、たとえば仏教の革新者として活躍したのではないかな、と思います。もともと仏教も、聖なる体験をベースにした知であるはずで、いくらテキストだけをつついてみてもその本質を理解できるものではありません。ともあれヨーロッパのこういう地下水脈的なものが、ロマン主義思潮の中に流れていき、ユングで再浮上し、その後深層心理学として確乎たる地位を一角に占めるに至った、ということなんですよね。そのへんの系譜については、文庫クセジュで出ている『エゾテリスム思想』というのが要を得た概説ですんで、興味のある人は読んでみてください。

もちろんそういう深い体験を言葉にするのはなかなかむずかしいことです。そんなことは当たり前なんです。言語化はできない。しかしあえてそこを伝えなければいけない、それが愛の行為であるのです。それは誤解を覚悟し、傷つくことを覚悟することなんです。よく知られている例では、あのゴータマ・ブッダ、釈尊ですね、ついに解脱の境地に達した時に、「とてもこの深い境地を、体験していない人に伝えることはできない。私は誰にも語らず、ずっとこの境地にとどまりつづけよう」と考えたと言われています。ところがそこに、ブラフマーという神が現れて、懇々と説得した。そこでブッダはそれを人々に伝えることを決心して瞑想から出たのです。これは最初の教え、「初転法輪」というものです。この愛の行為が仏教の始まりにあるのです。当然、ブッダの言葉を百パーセント理解できた人は、ほとんどいなかった。誤解につぐ誤解の連続なんです。ある意味で、精神文化の歴史とは、そういう誤解の積み重ねなんです。しかし、伝えられている限りは、私たちは、六十パーセントの理解を七十パーセントの理解にしていく可能性を持つし、いつかブッダのいた場所に到達する可能性が開かれているのです。それは遠い未来かもしれない。しかし、道はあるのです。それが文化なのです。道がつけられているということです。

ですから、神秘体験といわれる深い体験も、人類の共有財産とならねばなりません。自分が深い体験をすればそれでいいんだ、言語化なんかできるはずがないんだ、というふうに思っていたとしたら、それはエゴイズム、ナルシシズムの一種にすぎません。つまりは自己満足の追求にすぎないのです。そこには「お前なんかにわかるわけがないだろう」という軽蔑が暗に含まれている。愛がないのです。それは霊性の姿ではありません。霊性とは、単に自分が気持ちよくなることだけではないのです。もし、その体験をきっかけとして、「愛の行為」への欲求が自分の中に目覚めてこないとしたら、私はそんなものは偽の霊性であると言いたいですね。それは、論理的には説明できませんが、明らかな事実なのです。というのも、結局、霊性とは「巨大な愛の世界」を知ることなのです。その愛を地球に刻みつけることが、人間が存在する意義です。と、いきなり言うと飛躍がすぎると思われるでしょうね。だが、存在の扉を開くとき、そこには無限の愛が見出されることは、体験的地平として人間に与えられています。それはアサジョーリやマスローの至高体験など、幾多の事例をシェアすることによって明らかになったことです。(そういう体験を集めた本としては、フェルッチ『人間性の最高表現』をお勧めします。それからオルダス・ハクスレーの『永遠の哲学』もまだなら読むといいです)。

ここで、思想と体験とは両輪なのだと思います。体験は、それをある程度位置づける枠組があるからこそ、安心して語ることもできるし、自分がどこに位置しているかの見当もつけられるんですよね。体験のみがあって、それを位置づける枠組が何もないとどうなるか。結局、その社会で優勢となっている枠組には入らないということで、単に「異常」、「おかしい体験」としてしか認知されないことになる。あるいは、ちょっと向こうをかいま見た程度のことが、「私は悟りを開いた」などと勘違いして、新興宗教の教祖になったりする人も出てくる。既に今の日本にはそういう状況が出てますね。オウムの問題だってそうです。神秘体験を適切に位置づける地図があれば、オウムなんぞに引っかかる人は少なかったはずなんです。ちょっと不思議な体験をしている人が、たまたま出会ったオウム以外に、それを認めてくれる場所に出会えなかったということだったのじゃないんでしょうか。中川被告なんかその典型的な例だと思いますけどね。だから、オウムにも、「近代社会が認めていない事実を認知する」という面がちょっとはあり、それと同時にとんでもないデタラメが混在していた。全部、カルトというのはそうなんですよ。全部インチキだけだったら、ついていく人はいないんです。少なくとも、一割の真実があって、そこが魂に触れる人が入ってしまう。ところが、そういう人は、その他の九割のデタラメもまた真実だと思いこんでしまう。そういうことなんですね。オウム批判をきっちりしたいんなら、そういう近代社会の限界まで至らないと駄目なんです。でもそういう論議はなかったですね。

そこで、こうした近代社会の常識を越える体験を人間が持ちうるということ、そのことを視野に入れ、前提とした上で、人間の世界、宇宙はどのようになっているのか。自分というものはどこに由来しているのか。そういう意味での思想はどうなるのでしょうか。それは、いまだ見出されていないものなのです。そういう思想はまだ、現れていません。近代の哲学者は、あまりに粒が小さすぎますし、今の日本の哲学者なんて、ほとんど相手にもしていません。そこで、私は伝統的思想に向かいます。プラトン主義、インド哲学、仏教、などです。これをもう一度、単にアカデミックな研究対象として扱うのではなくて、「結局そうした思想は、どのような体験を知っていて、それをベースにどのように世界を理解したのか」という観点から再評価することが必要でありましょう。もちろんキリスト教思想もそこに入ってくるでしょう。シュタイナーのような思想も正当な評価をあたえられるべきです。ここで、伝統的な「宗教」という枠組はいったん解体されます。多くの昔ながらの宗教には、霊性的体験というコアになる部分と、時代や文化によってつけ加えられた付随的なものとが混在している。それをよく選り分けることです。ただ、文化的につけ加えられたものも、生きる上では大切なのです。相対の世界に生きるものには、相対的な形もまた必要です。あくまで相対的であると知ればよいのであって、相対的なものを全部なくしたら人間として生きることはできません。

こうした思想に向かっていくものとしては、とりあえず出発点として、伝統的思想のエッセンスを抜き出してまとめた、ヒューストン・スミスの『忘れられた真理』(拙訳、アルテより近刊)があり、また井筒俊彦の『意識と本質』なども注目されます。ただ、井筒さんには若干、専門語的文体が見られますが・・。それと、個別的にはかなり疑問点もありますがケン・ウィルバーも志だけは評価したいと思います。私個人としては、仏教の唯識論に着目し、これを拡張していくことによって「華厳」の世界を描こうとしたのが『魂のロゴス』です。つまり、宇宙のヴィジョンです。宇宙のヴィジョンを提示することこそ、本来の思想の役割だと考えているからです。思想ですから、科学のような「証明」はありません。むしろ、芸術に近いと思ってます。

同時にまた、日常意識と究極意識との中間にある「中間領域」の体験の問題、自我の問題、「気」やヒーリングの問題、輪廻転生の問題・・などにも体験的地平という観点を保持しつつ取り組むことが必要だと思いますね。

思想と学問とをあえて区別する必要もないと思いますし、またここで「霊性学会」なんていう新しいアカデミズムを作るつもりもありません。ただ、魂の体験をシェアし、それと伝統思想に含まれる 叡智とをつきあわせて、人類にとって本来的な「思想」のあり方を回復しようとする知的、精神的運動、それを「霊性学」と呼ぶのだ、ということなのです。人類に開かれた地平として「叡智」が存在することを承認する知的営みは、すべて霊性学となりうるものです。

最後に、『オックスフォード教育講座』というシュタイナーの教育論があるんですが、その中から一文を引用させてもらいます。これは、本来の思想のあり方というものをよく表現していると思うのです。


 本当のところ、私たちの高次の感情作用のすべては、宇宙世界がみずからの中から私たちを生み出し、また私たちをその中へ位置づけてくれたことに対しての「感謝」という根源感情からのみ、出発しうるものでなければならないはずです。抽象的な観照のなかにとじこもり、宇宙に対しての感謝というゆたかな感情生活へと入っていくことができない世界観や哲学は、完全な哲学ではありません。それは頭部の活動のための哲学であって、人間がなしうることの総体を体験するための哲学ではないのです。自分の肉体機構を暖めることのできないような頭部活動は、人間を幸せにせず不幸にします。なぜならばそれは、あたかも異物のごとく成長し、魂の腫瘍となってしまうからです。すべての哲学の最終章は、宇宙の諸力に対しての感謝の念をもって終わるべきものです。たとえ著者自身がこれを直接に表現しない場合でも、読者の心のなかに、この感情が呼び起こされるべきなのです。  新田義之訳をもとにして改変[p.112-3]
これを受けて、私はこう言いましょう。本物の思想は、究極的に、「宇宙の愛」を受け、それを表現することによって、魂を暖めるものである、と。
以上をもって「霊性学」の簡単な説明を終わります。

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これを読んで菅原教授の書かれた「魂のロゴス」とヒューストンスミス氏の「忘れられた真理」を早速本屋で注文しました。私は予約できましたが、もうあまり在庫はないようですね。。。

シュタイナーの思想に興味があるけれども特異でどういう枠組みで捕らえればいいか迷う方(私などはこれです)にはとてもいいような気がします(まだ現物がなくて読んでませんが、かなり期待w)

是非読んで欲しい一文(といってもそれなりの長さがあります・・・)

以下は長岡造形美術大学の菅原浩教授のブログから


感動して何度も読み返しました。私が日頃なんとなく追いかけてきたものがやっと1つの線で繋がった。感慨もひとしおです!


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霊性学とは何か

このサイトはいちおう「霊性学入門」などとなっていますが、考えてみればそもそも「霊性学」とは何か、という話はあまり書いていませんでしたね。そこで、ここで簡単な一文を書いてみたいと思います。
最初にはこんなことが書いてあります。

「霊性学」とは、人類がこれまで求めてきた霊性の探求を総合的に見直し、
21世紀にふさわしい新しい霊性のあり方を考える学問です。
それは最も広い意味での「哲学」――すなわち「愛智」であり、
決して「心理学」に還元されるものではありません。

ここで「学問」とありますが、これは最も広い意味において理解してください。つまり、今の日本、あるいは近代社会全般に見られる、大学を中心とする「アカデミズム」に属している知、という意味ではないのです。私は「知を求める」ということをもっと自由な営みと理解しています。私がここでイメージしているのは、たとえば古代ギリシアとかルネサンスなどの哲学者だったり、あるいは比叡山とかインドのナーランダ僧院大学のような知の殿堂だったりします。ご存じのように、現在のアカデミズムは、科学技術はともかく、こと「究極的な、人間存在の意味にかかわる問い」については、きわめて閉塞した状況にあると言わざるをえません。それはなぜかといえば、結局、こうした究極的な知を追求する営みは、もともと近代アカデミズムという制度とは根本的になじまないところがあるということです。
これはフーコーという人が指摘しているんですが、アカデミズムの学問分野というのは、それ固有の「文体」を持っているといいます。たとえば専門語などですね。論文なども、何かいかにも論文らしい文体で書かなければ認めてもらえないということになってます。ところが、哲学、思想に関しては、この文体というのが普通の人にはまずわからない、これが日本語かというようなものになっています。日本で最高の哲学者といわれている西田幾多郎の本をのぞいてみてください。それはもう、普通の人がぱっと読んだのでは、まず何が何だがまったくわからない。それはその当時のドイツ哲学を直訳した漢語が盛大に使われていて、それを習得しなければわからないしくみになっているからです。昔の日本では、日本語では学問ができず、漢文を勉強しなければいけなかったのですが、今でもそれと似たような状況にあるということでしょうか。

たとえばプラトンの哲学というものがあります。これはほとんど全部、戯曲のような対話形式で書かれているんです。それで「対話編」と呼ばれてますね。もしこういう哲学作品を書いても、アカデミズムの哲学界では絶対に通らないでしょう。つまり、「私は、こういう哲学者仲間の文体をマスターして、それで書けるようになりました」というところを見せないといけないのです。それで一人前の哲学者になったことになるわけです。言ってみれば、これは「ギルド」ですね。排他的職業集団であって、自分たちの基準に合うかどうかで、それが哲学なのかどうなのかを判定するんです。

まあ、それで好きな人たちが勝手に集まってやっているんなら、文句をつけることもないようなんですが、今のアカデミズムというのは決して単なる好き者の集団というだけではなくて、社会的な権威があるわけです。文部科学省から助成金がいろいろな形で出て、つまり税金も使われているわけです。私はこんな哲学会なんか解体したほうがいいと思っていますが、私の払った税金も使われてしまう。税金を使っている以上は、市民に還元する義務があるわけです。つまり、一般市民が、哲学というものに期待するものを、わかりやすい形で提示しなくてはならないんです。こういう、投資に見合ったものを提示する義務があるということを「アカウンタビリティー」というんです。これがいま、行政でもビジネスでも常識なんです。お金をもらっていながら、自分たちは学問の自由があるんだから何をしようと勝手だろう、と言ってもだめです。アカデミズムの学者の困ったところは、自分たちがアカデミズムとして存在していること自体に、一種の「権力」があることを自覚していないことなんです。権力が悪いわけではありません。警察官は権力がありますし、だからこそ泥棒をつかまえられるわけで、教師も生徒に対して一種の権力、つまり、自分たちの考えるように他人を動かす力を持っています。だから、権力を持っている人は、自分にどういう権力があるかを自覚して、それを適切に行使しているか、常に自覚している必要があるんです。哲学に関して言えば、それがアカデミズムとして存在していることは、思想的な営みについて、ある権威を独占することになります。

こういう権威を無自覚に受け入れてしまっている人は、「世界とは何なのか、自分とはどこから来て、どこへ行くのか」などという、究極的な問い、ビッグ・クエスチョンを追求したくなった時、大学の哲学科に入学します。たとえば歌手の小椋佳さんとか、わざわざ哲学科に入り直したわけですが、でも今の哲学科というものが、そういう問いに答えられるだけの器量を持ち合わせているんでしょうかね。私は、もしそういう相談を受けたら「やめておけ」と言いますね。いま、過去の思想的遺産はほとんど安価で読むことができるわけですし、ビッグ・クエスチョンへの問いかけは、どのような規制も受けてはならないのです。それを、「今の日本の哲学界に受け入れられるような形式」で思想を追求しなければならない、などという狭い枠に押しこめる必要がどこにあるのか。わざわざそうしたいというのは、社会的権威をウノミにしたブランド信仰にすぎないと思う。ビッグ・クエスチョンを志す人は、もっと自由な立場に身を置いてほしいですね。現実には、そうした狭い枠を受け入れ、いわばある程度自分を去勢することに同意した人だけが大学に残れるような構造になっているんです。これは私は実際にアカデミズムというものを知っていますから、はっきりそう言えます。アカデミズムなんてそんなものですよ。もちろん、哲学を志す人は、若いときにはそれなりに真理への情熱を持っていた人たちのはずなんですが、結局はアカデミックな「哲学史研究」をしなくては学界に残れないので、そういうことをやっているうちにさて定年が来てしまう、そこで「で、結局、あなたはこの人生において何が本当にわかったんですか?」ということになります。それは幸福な人生と言えるのか。社会的に尊敬はされているかもしれないけど、その人の魂レベルから見て、それは本当に求めるものを得ることができた人生だったのか。――実は私は、そういうことを想像しました。そういう自分が見えるような気がしたので、この道を否定しました。それで今に至っているというわけです。よく世間では「哲学者」なんて肩書きを見ますが、嘘つけと思う。「哲学史研究者」に過ぎない人がほとんどです。私はアカデミズム一般を否定しているわけではありません。そこは誤解しないでください。分野によってはそれがうまく機能するものもある。ただ、真の意味での哲学、思想は、こういう枠組にはなじまないということです。「哲学史研究」ならけっこうです。でもそれは哲学そのものではない。本来の哲学の参考になるかもしれない歴史研究の一分野にすぎません。近頃、池田晶子さんの『14歳からの哲学』というのがベストセラーになりましたね。これはやっぱり、多くの人が、ビッグ・クエスチョンに正面から向き合った「本物の哲学」を求めている証拠だと思います。しかも、誰にでもわかる言葉で書かれていること。こういう条件があったので売れたんでしょうね。ただ、あの本自体は、クエスチョンを投げかけるだけで、何も答えらしいものは書かれていませんが。「そもそも絶対に答えはないのだ」と池田さんは言っていますが、はたしてそうでしょうか。「完全に同じ答えはない」かもしれませんが、その時の自分が出しうる最高の答えはありえます。そうでなければ、生きるのは虚しいことですよ。でも、ほとんどの自称・哲学者は、そういうビッグ・クエスチョンに向き合ったわかりやすい作品を世に問うていませんね。怠慢です。アカウンタビリティー欠如です。社会においてやるべき仕事を果たしていない。くだらない自称哲学者なんかよりもうまい米を作る農夫のほうがよほど世のためになってます。哲学・思想においては、三流であるくらいなら死んだほうがましです。そのくらいの気迫をもってやらねばならないものです。

ともあれ、そういうアカデミズムへの疑問があって、私の『魂のロゴス』では、主人公の森本教授を、「哲学者」ではなくて、「人文学者」としました。ルネサンスの思想家、フィチーノという名前も本文に出てきましたけど、この人はあの有名なメディチ家をパトロンとして、西欧に初めてプラトンを紹介した人です。ギリシア語から、その当時の共通語だったラテン語に訳したんですね。よく言われますが、ルネサンスの時代は、既存の社会制度から自由な立場に身を置いて、新しい思想や芸術を追求する人々が出てきた。レオナルド・ダ・ヴィンチなんかもそうです。こういう自由思想人を「人文学者」という言葉で表したわけです。やはり、そういう生き方というのは魅力があるものでしょう? ただ、昔の教科書では「宗教の抑圧に代わって人間性を解放した」なんて書いてありますが、これは嘘です。たとえばフィチーノが追求したのは、これは神秘思想です。つまり魂とか、世界の根元とかいう話なんです。ルネサンスという文化は、西欧がプラトンや新プラトン主義の神秘思想を新たに発見したという意味があるんです。同時に錬金術だとか、カバラだとか、そういう神秘主義的なものもどっと入ってきました。オカルト的なものも混ざっています。つまり文化が神秘主義に向かって動いていったという面もあるんです。それまでのヨーロッパというと、ご存じのようにカトリック教会でして、これは簡単にいえば、教会の言うことに従っていれば救われる、という考えです。そうすると、個人個人が直接、神のことを知ったり、神秘の世界を理解したりしてはいけないわけです。というか、「そういうことはありえない」という立場ですから、もし、「私は自分自身で神を見出した」と言う人がいたら、それは「嘘に決まっている」わけです。だからそれは悪魔に憑かれているのであって、排除しなければならない。こういう論理です。こういう論理、どこかで聞いたことがありますね。たとえば、「超能力なんてありえない。ありえないに決まっているのだから、超能力というのはインチキに決まっている」なんていうのもあります。しかし、ありえるのか、ありえないのか、それを「断定」できる権威というのはどこから来るのか。あることを「決まっている」と断定して、それにあわないものを嘘と決めつけるというのは、これはもっともクリエイティブな精神から遠いものですね。そもそも科学というのも、そういう「決めつけ」を疑って、「ともかくもためしてみようじゃないか」というところからスタートしているはずで、それが実証精神というものでしょう。人間の知性なんてごく小さなものです。決まっているなどと言い放つのは傲慢というものです。

ま、超能力問題はおいときますが、このへんで「霊性」の問題になってきます。つまり、なぜ今の学問は、霊性のことを避けようとするのか。ここで霊性というのは、人間が、自分の存在の究極的根拠にかかわっていく営みにかかわるもの、というぐあいにとりあえず考えておきます。これは定義というわけでもなく一つの出発点ですが。つまり、ビッグ・クエスチョンです。自分とは何か、世界とは何かという「深い問い」がある。それについて考える、というだけでなく、もっと直接に、その中へ入っていく。そこには体験ということも含まれます。私は思うのですが、そもそも「人間の存在とは何か」ということを考えようとしたとき、それを抽象的に論理だけで考えてもしかたがないと思います。論理というのは経験の世界を整理するためにあるものです。考える前に、まず私たちは、人間とはどういうものであるかという経験の世界を持っており、それを根拠として考えるしかないわけです。だが、その経験の世界、つまり、人間とはどういうことを経験しうるものであるか、ということがその前提にあります。たとえばですね、この二十一世紀において思想をするためには、ナチスの強制収容所とか、広島・長崎の原爆のこととかを知っていないといけません。人間はそういうこともなしうるものである、と知っている必要があるんです。だが同時に、もっと知らねばならないことがあります。それは、人間のいわば内面的経験の深み、魂の経験です。その究極においては、ギリシアの神秘思想家プロティノスのように、世界の根元と自分とが一つになる、つまり自分と神とが等しくなるという経験もあるわけです。それと同じようなことが、インドとか多くの文化の中でいわれている。こういう体験というものをどう受け止めるのか、という問いがあるわけですし、また、そういう体験というものをもう少し詳しく集めて調べてみよう、ということも必要であるわけですね。

ヨーロッパの近代哲学を見ていると、どういうわけか、経験の世界があまり出てこないんですよ。たとえば、その哲学者には何らかの深い体験があって、それをベースにしている思想のように見えるのに、その体験自体は語らないんですね。深い哲学者にはだいたい、体験があるんです。デカルト、フィヒテ、シェリング、ベルグソン、フッサール、ハイデッガー、西田幾多郎というような人には体験の世界を感じます。ただ、哲学という世界のルールでは、そうした体験は黙して語らず、ただ論理のみによって思想を構築しなければならない、ということになっているんですね。誰がそんなことを決めたのか。そのルールを受け入れないと哲学という世界には入れてもらえないわけなんです。私の推測では、このルールは、中世にさかのぼるんじゃないかと思います。そこに、スコラ哲学、スコラ神学というものがありました。これは、神と存在の世界とは何かということを、徹頭徹尾、論理だけで構築していくんです。これはこれで、ゴシック大聖堂みたいな美しさがあるんです。抽象的な言葉による大聖堂の建築こそ目的だったんですね。それが神の栄光を賛美する行為であったんです。ただもちろん、これは思想を表現する方法、文体としては一つのものにすぎません。思想には、その他無限にいろいろな表現方法、文体があるはずです。ところが、ヨーロッパではそういう、純粋論理による構築ということが文体として主流になった。というか、ほとんど唯一のものになってしまって、これが近代になってアカデミズムとして整備されますと、もう硬直化というか、惰性のようなことになってしまったのではないかな、と思うんです。

だから、スコラを受けついだ近代哲学の文体的規制の中では、経験の世界は語れない。たとえばそこに、魂が上昇して神秘の内奥に入っていくような神秘的体験などが入ってこれる余地はないわけです。そうすると、「人間は何を経験しうるか」という問いが、思想の前提としてあるということが軽視されてしまうように思います。これが近代哲学の基本的な限界だと私は思います。本来、深い思想は深い体験をベースにしています。つまり、思想を論理的体系として構築する以前に、まずもっとベーシックな、「世界感覚」というものがあるんですね。自分は世界をどういうものとして経験しているのか。それが思想というものの本来の根拠なんです。ところが近代では、それを語らないことになっている。そこが私の気に入らないところです。ただ、ハイデッガーという人は、現代哲学ではすごく巨大な人ですが、彼だけはそういうことに気づいて、世界経験を語ろうとしている。それは個人的経験ではないんです。ただ、世界をどういうふうに経験できるものなのか、ということを語っていて、論理的体系を構築することに興味を示していないんです。そこが、ハイデッガーの思想が決定的に新しいところなんですが、もちろんその前提として、ニーチェという存在があったわけですね。ニーチェはご存じかもしれませんが、普通の哲学のような論理はまったく無視して、むしろ思想と文学とを融合させました。というか、そもそも「いかにも哲学」というのは一つの文体的規制によって作られたものにすぎないんです。つきつめれば、思想とは言語表現なんでしょ、というところへ行くわけですね。やっぱり、センスのある思想家というのは、文体の問題に気づいている。日本でいえば林達夫なんて人がいます。

結局、人が思想家に期待するところというのは、「この人はどこまで深く世界を見ているか」ということじゃないかと思うんです。その、見ている世界が深いから、なかなかわからない、というのはいいんです。そういうむずかしさというのは、むしろ読者が挑戦して克服していくことによって多くが得られるものですから、そういうむずかしさを批判してはいけません。ところが、たいして深くもないのに言葉だけはやたらむずかしいのを使う。これは三流である証拠ですね。すべての分野においてそうですが、一流はごくわずかであり、九割は三流です。そういう目で見ないといけません。「どこまで見えているか」が大事なことなんです。その視界には、人間が経験しうることの地平がどのくらいまで入っているのか。

というわけで、いわゆる哲学っぽい文体の哲学っていうのは、もうニーチェが破壊してしまった。あとデリダとか、フーコーとか、ポストモダンといわれる人たちがやっていることというのは、ニーチェの後追いなんですね。だから、実質的にはもう哲学は終わっている。でもなぜか、アカデミズムでは終わっていないのが不思議なことなんです。思想というのは本来、もう既にいかなる手かせ・足かせからも解放されているんです。それは現代美術と似たような状況ですね。基本的には、何をやってもいい。そういうものであるはずなんです。ただ、既成の文体的ルールを受け入れないと、社会的権威ある集団には入れてもらえない、そういう状況です。

それで、私が言う霊性学っていうのが、また新しいアカデミズムの学問を樹立しようとすることではないらしい、というのは少しおわかりいただけただろうと思います。それは普通の意味での哲学ではないし、もちろん科学でもありません。だいたい、科学は本来、物質的世界を探求するために作られた方法論でありまして、内面世界、魂の世界とは何の関係もない。なんだか、学問とは科学のことだ、と思っている人さえありますね。これは大間違いです。あまりにそういう誤解が多いので、私は科学論を最初に勉強することをお勧めしているわけで、村上陽一郎さんの本、『新しい科学論』(講談社ブルーバックス)なんかを読んでみてください。つまり、「知」というもののレパートリーが狭くなってしまっているんですよ。自然科学の方法論では、心とか魂といわれる領域のこと、そこに生じる経験の世界は探求できない。機械で観測することはできません。ある感情が生じたときに、どういう脳波が生じるかを測定することは可能ですが、その脳波はその感情の内面的質感について何かを語っているわけではないのです。それはあくまで内的状態と脳の状態との対応関係があることを示しているだけです。

近代ヨーロッパで、そういう人間の内的世界そのものを理解していこうという動きが、深層心理学というものだったんです。哲学などが、内的世界を直接には語ることができないという構造的欠陥を持っていた近代文化においては、心理学が一つの突破口としてあったんですね。だから二十世紀の思想というとき、狭い意味の哲学だけではなくて、むしろ心理学などで生じてきた変化に注目していかねばなりません。内的体験としての霊的体験のことも、そこで浮上してきたんですよね。

で、フロイトが初めて無意識ということを言い出した。無意識があるっていうことは、人間の心は意識している以上に広いということですよね。ただフロイトはすべてを性に還元しようとしたし、宗教とか神秘主義も全部、性の抑圧で説明しようとしたわけです。どうもフロイトという人は、できるだけ人間を暗い方へ暗い方へと、理解しようとするところがある。人間とは駄目なものであるというのが基本テーゼなんです。夢も希望もないんだよ、と言いたいんですね。まあこれ、近代のインテリの好むところですね、人間が駄目だと思いたがるというのは。たしかに暗い部分もある。それを直視することは必要なんですが、人間はそれだけのものなのか。そういう暗い部分を乗りこえて進む可能性はないのか。フロイトはあらゆる霊性をすべて否定しました。それはヨーロッパ文明というものの完全な自己否定でもあったと思います。とにもかくにも、ヨーロッパという文明は、神という価値を根拠として作られた文明であったはずなんですが。ニーチェは「神は死んだ」と言ったわけですが、フロイトも神を殺そうと必死の努力をしたみたいですね。

そこでユングの登場です。ユングといえば思い出すのは、晩年に、「あなたは神を信じてますか」と問われて、こう答えたんですね。「私は神を信じる必要はありません。私は神を知っています」。この言葉に、実は、ヨーロッパ文明全体の大きな転換が示唆されてるんですよ。どういうことかと言えば、つまりここでユングは、「神は信じるものではない。直接に知るものである」と主張していることになりますよね。神は感じるもの、経験するものとしてある。そういう経験の地平がまず人間には開かれているのであって、神という言葉は、その体験の地平につけられた名前にすぎないのだ、とユングは言いたいわけなんです。そして、自分はそういう体験を知ったのだから、既に「信じる」ことは必要ないのだというんです。「信じる」というのは、「自分にはまだそういうたしかな経験はない」という前提で成り立つわけですよね。

ヨーロッパ文明というのは、「神は経験するものではなく、信じるものである」という立場を基本として作られているんです。だから神を経験したと主張する人間を嘘つきよばわりし、弾圧する。そういう歴史が繰り返されました。これは世界の文明を見わたしてみても、西ヨーロッパの文明に固有の特徴なんですよ。キリスト教といっても、カトリックと東方教会という、ギリシアや中東にあるキリスト教とは違うんですね。東方教会では、人間が神を経験しうることを認めるんです。むしろそれを目標とするんです。イスラム教は二重構造になっていて、公式には神の経験を認めない。しかし神秘主義の一派があって、そこでは神の経験が認められています。仏教とか、ヒンドゥー教、それが中国なんかでは、むしろ経験が第一であると考えられている。禅はそれが徹底的に推し進められたわけですね。経験だけが重要で、あとはまったくどうでもいい。すべて経験のための手段にすぎないわけです。経験こそが中心だということになれば、それに神という名前をつけようと、仏と呼ぼうとどうでもいいではないか、ということになります。要は、存在の究極を体験するということですね。神とか仏とかいっても、それは経験そのものではなく、それを名づけるための言葉にすぎませんから。だから、ユングの言うことはヨーロッパでは異端であるけれども、東洋、正確にいえばギリシアから東では、むしろ主流である。そういっていいのです。

神、存在の究極は人間には体験不可能であると初めから断念したところで、なおかつ、その神への信仰を証するために、抽象的言語によって大聖堂を作るというのがスコラ神学というものだったんです。トマス・アクィナスという神学者がその代表なんですが、彼は、一生懸命言葉の大聖堂を作って、神そのものは人間には不可知であると論じていた。ところが、晩年になって、ある時、何かとてつもないことを経験したらしいんです。そして、「自分が今まで書いたものは、ゴミの山にすぎなかった」と言って、それっきり筆を折り、沈黙したまま世を去ったそうです。これは面白いですね。トマスは一体何を経験したのでしょうか。それは、神を経験したに違いないと思う。それで、自分がそれまでやってきたことが、誤った前提に立った努力だったと気づいたんじゃないでしょうか。しかしその神の体験を公言することはできなかったのでしょう。それは教会の教えに反することになり、教会が存立している基盤そのものを崩壊させる危険を秘めていたのです。トマスの魂はこの体験で救われたのかもしれません。でもそれ以降のヨーロッパの文明はどうなのか? ヨーロッパは(西ヨーロッパに限定した話ですが)、それ以降も、神、存在の究極根拠は人間には不可知であるという前提で話が進んでいったわけです。「人間は、存在の究極を知る、つまり真理を知るという経験へと開かれている」という人間観が、ヨーロッパ人の共有するところとはならなかったわけです。少なくとも公式には、ですね。

ところが、こういう公式見解とはちょっと違って、人間は実際にはもっと深い世界を知ることもできるんじゃないのか、と考えていたのが、先にあげたルネサンスの人文学者たちです。フィチーノなんかはギリシア的神秘思想にひたっていたわけですが、ギリシアというのは神秘思想の世界なんです。ですから東洋の一部です。もちろんギリシアには、合理主義思想の根元という面もあって、つまり正確にいうと二面性があります。ラファエロの有名な絵に、プラトンとアリストテレスを描いた絵があって、プラトンは指で上の方を、アリストテレスは下の方を指さしてします。上の方というのは、高次の世界体験をめざす立場を暗示しています。先に言ったようにフィチーノが訳すまではプラトンは西ヨーロッパには知られていませんでした。アリストテレスだけなんです。プラトンとは、神秘思想として理解されたんですね。これはイスラムでもそうなんです。イスラム文明は、この当時ヨーロッパよりはるかに進んだ先進地域でしたが、早くからプラトンや、新プラトン主義という神秘思想を受け入れ、それとイスラムとを融合させた独自の神秘思想を作り出す方向へ向かっていくんです。一方アリストテレスは、論理的に学問を構築していく方法として広く学ばれていました。今の日本や欧米には、一般には、プラトンが神秘思想であるという見方はあまり理解されていませんが、それは近代の西欧人たちが、ギリシアに自分たちの故郷を見出そうとして、近代的な価値観を投影した解釈をしていたからです。近代人は、神秘思想がお嫌いですから、ギリシアのそういう面を軽視する傾向がありました。ギリシアの神秘思想的側面について詳しく知りたい人は、井筒俊彦による名著『神秘哲学』をお読みください。予備知識がないとかなり難解だと思いますが。井筒さんは、「東洋はギリシアから始まる」と言っていました。その通りなのです。ギリシアを西洋に入れるのは、近代ヨーロッパ人の思い込みなのであって、われわれがその尻馬に乗ってはなりません。

神智学 その4

4.霊界について

霊界についても7つの領域に分けて考えます

1.物質の原像の領域
2.生命の原像の領域
3.魂的なものの原像の領域
4.1から3をまとめる領域であり、地上世界の影響を受ける最上の領域です。
5から7の領域は1から3と全く違うもので、ここに人は真の自己を発見することができます。


死後に人間はアストラル界を通過して最終的に霊界にきます。

人は地上世界で見たり感じたりしたことの原像をこの霊界で見つけることができます。


ここにきた人間は次の生に備えて力と知性を蓄えます。

神智学 その3


3つの世界


人間が普段関わっている世界は物質界です。シュタイナーは物質界以外に人間が関わる世界として魂界(アストラル界)と霊界について説明しています。



3.魂界


魂界はアストラルの素材で出来ているといいます。感情の世界であり、物質界とは違った法則が働いているといいます

魂界での距離は感情的な距離と相関します。感情的に近いと大きくなり、遠いと小さく感じられます。

また感情は自分の内からではなく外側から来るように感じられるのが物質界との違いです。

感情は共感と反感の作用を持ち、互いに共感をもつもの同士は引き付けあい、反感を持つもの同士は反発します。


魂界は7つの領域に分けて説明します


・欲望の灼熱の領域

 この領域では反感が共感に大きく勝ります。


・流れるような感覚の領域

 この領域では共感と反感は均衡を保っています。


・願望の領域

 この領域では共感が反感に大きく勝ります。


・快感と不快感の領域

 この階層では反感が弱まり共感が主として作用します。この領域では快と不快の感情を強く感じます。


・魂の光の領域

 共感が反感に対して圧倒的に強くなります。他の形成物を取り入れて豊かにしようとします。

・活動的な魂の力の領域

・魂の生活の領域

 共感の力はますます自由な領域です。
 

また、人間は死ぬとアストラル界を通って霊界に進んでいくわけですが、その時その領域の作用によって様々な体験をすることになります。

神智学 その2

輪廻とカルマ


人智学では、人間は霊格を上げるために地上に何度も生まれ変わると説明します。


自分の生まれる環境、能力などを人は生前に決めてきます。その時に立てた目標をカルマといいます。


ただし、人は普通生前の事は覚えていません。それは自分自身のカルマを知っていると地上での出来事は十分な訓練にならないからです。


死と睡眠


死んでしまうと二度と同じ体には戻れず、睡眠だと目が覚めても同じ肉体で生きられるという違いはあるものの、死と睡眠とは似ているところがあります。


シュタイナーは死と睡眠での物質体、エーテル体、アストラル体、自我の状態について説明しています。


【睡眠】
睡眠では物質体とエーテル体はその場のままで、アストラル体は自我を包んだままエーテル体から離れます。

【死】

死んでしまうと肉体からエーテル体、アストラル体と自我は離れてしまいます。この物質とエーテル体が離れる時にいわゆる走馬灯が流れ、人は今までこの人生であった事を時間と逆に思い出します。


そして暫くするとエーテル体もアストラル体及び自我と離れてしまいます。そして自我とアストラル体だけになります。


アストラル体は感情を保持するのでアストラル体と自我だけになると人はこの人生で人に与えた感情を体験します。


ただし体験する感情は相手の感情で、それを受け入れられるまで何度も体験することになります。

神智学 その1

神智学とはシュタイナーの代表的著作のひとつです。

シュタイナーの思想(この思想をアントロポゾフィーまたは人智学という)の基本的な部分を説明しています。


1.人間の本質


まず初めに、人間の本質について簡単に説明します。


シュタイナーは人間には以下の3つの側面があるとします


体・・・物質


魂・・・感覚・感情


霊・・・思考


そして人間の3つの各側面をさらに3つに分けています。


物質体・・・物質的な体


エーテル体・・・物質体に生命を与える体


魂体・・・感覚魂と結びつく体


感覚魂・・・物事の快・不快や好き・嫌いといった体的な感情・感覚を感じる魂


悟性魂・・・ごく日常的なことを思考する魂


意識魂・・・真理や善などといった永遠のものを思考する魂


霊我・・・意識魂とつながった霊


生命霊・・・霊的な養分を受け取る霊


霊人・・・霊的な存在の中心


これらは霊視者にはオーラとして見えるとしています。このオーラはその人の成長によって拡大していきます。


また、自我の中で霊は生活すると考えます。


この9つのうち、魂体と感覚魂は1つに結びついています。また意識魂と霊我も結びついています。

そのため人は7つの部分から構成していると考えることもできます。


1.物質体

2.エーテル体

3.感覚的な魂体

4.悟性魂

5.霊によって満たされた意識魂

6.生命霊

7.霊人


これをもっと簡略化して以下の4つとして考えることも出来ます。


物質体

エーテル体
アストラル体
自我


ここまで、人間の本質を階層ごとにわけてきましたが、その境界では相互に浸透しており、厳密な分割は難しくなります。

例えば虹のようなものかと思います。日本では虹を普通7色としますが、地球の別の地域では6色とすることがあります。また見方によっては無限に分けられるとも考えられます。

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